〈PHNブックレット1〉
子どもの虐待と母子・精神保健
    ―虐待問題にとりくむ人のための「覚え書き」 【改訂版】
鷲山 拓男 著
                 企画・編集 全国保健師活動研究会



すいせんの言葉
                                            (東京都 代々木病院)中澤正夫

 今日「虐待児問題」は、マスコミや市民の関心もあり、最重症例をもって、私たちの前につきつけられる感が強い。書店に出る様々な関係本も重症典型例が述べられており、保健師や教師の人たちは、専門医療機関があつかう症例の援軍として、いきなり前線に駆り出される思いをもつことと思う。
 一方、子どもの養育環境は年々悪化し、本来「群れ」の文化であった子育ては、「個」の問題になり、少子化も手伝い、育児に対する不安は援助者のいない中で増強するばかりである。
 こうした中で、母子保健を主な活動とする保健師たちは、虐待の軽症例から重症例まで連続した、あらゆるタイプの症例が発生しているのを知っている。しかし、支援者のネットワークづくりをしながら1事例の支援に時間をかけている間に、次々に問題事例が発生し、予防にまわるにはどうしたらよいかと悩む保健師も多い。
 筆者は、虐待治療の専門家である。また、「どうやったら予防にまわれるか」に関心をもち、長年、東京の練馬区をフィールドにしながら、保健師たちとともに実践を積み重ね成果を上げてきている。本書は、その試行錯誤の取り組みから生まれた教訓や実践指針をまとめたものである。
 筆者は、公衆衛生活動として、虐待の予防、早期発見の可能性を力強く訴えている。虐待は、もとより単なる保健のレベルを超える問題であり、支援に加わるすべての人やチームにとって、導きの書になることを確信している。同時に、この指針で実践をした人たちが、欠点を指摘し、よりよき改訂版にしていただきたいと願っている。なぜなら多くのチームメートとの共同制作でもあるからである。
 最近、虐待予防の取り組みを説く人が増えている。しかし、その方針は本質からズレたものもある。乳児健診時に母親に対して「うつ病・うつ傾向」のスクリーニングを行ない、高得点者に対して集中的なフォローをして、虐待親化を早期に見つけ対処するという取り組みを実施しているところもあるが、これは歪んだ効率化であり、公衆衛生でいう「予防」とは似て非なるものである。
 筆者が強調しているように、ハイリスクの母親は健診に来ない人が多い。病からいえば「うつ病」よりも「統合失調症」の母親のほうが、より深刻なことは現場の人なら誰でも知っている。しかし、このことが見逃され、余程頑張らないと、これが予防対策として、まかり通ることもあると考えられ、あえて喚起を促しつけ加える。


すいせんの言葉
         
         (東京都練馬区 石神井保健相談所)藤尾静枝

 東京都練馬区における母子保健や精神保健活動は、多くの関係者の方々と地域の住民の方々との共同の取り組みによって今日に至っています。なかでも障害児に対する支援では、先輩の保健師が父母と一緒になり、いち早く「障害児をもつ親の会」(「ちゃぼとひよこ」)をつくり、障害児(者)の社会参加の場を拡げました。また、精神障害者に対する活動でも、「練馬区健康連絡会」に参加する地域の方々とともに、区内に20か所の作業所をつくり、家族会や当事者とのミーティングなども行なっています。
 以上のような活動は、保健師の現在の虐待予防活動の原点となっています。1997年(平成9)年頃、ある母親から「子どもを虐待している」という緊急の電話があり、深刻な虐待の実態に茫然としました。早速、児童相談所の職員と家庭訪問を行ない、子どもを施設に保護したものの、施設の保育士からは「もっと早く手をうてなかったのか」と訴えられ、このことが、新しい母子保健活動への転機になりました。
 精神保健相談に来ていただいていた鷲山先生の助言を受け、家族の相談や母親の通院の開始、子どもの虐待防止センターの相談員によるカウンセリング、保健師の家庭訪問、関係者会議の開催などを行ないながら5年を超える支援を行ないました。その結果、母親は少しずつ育児が困難な状況を認めるようになってきました。
 練馬区での虐待予防相談は、母子保健と精神保健活動が基盤となり、地域住民の健康づくり活動が盛んに行なわれる中でスタートしました。この5年の間に、200例を超す事例への支援活動を、児童委員やボランティアの方々と地域ぐるみで続けてきましたが、この間、鷲山先生は、この本の基になる資料をつくり、1事例毎に細かい助言を保健師に下さり、ともに考え、ともに悩んで下さいました。
 この度、練馬区の保健師達が学習してきたものを、全国の保健師をはじめ関係者が学ぶことができる本として、鷲山先生があらためて手を加え執筆して下さったことに、とても感謝をしております。
 この本を読まれると、妊娠期や乳児期の育児不安を訴えるお母さん達や、健診に来ない人などの支援が大切であることが判ります。私自身は、何度も読み返さないと理解が難しかったり、理解をしてさまざまな働きかけをしても、すぐに事態が変わらないことを経験しています。しかし、地道な活動を行なうと、鷲山先生のメッセージが伝わってきます。
 虐待問題への支援は、根気と判断、継続とチームワーク、癒しがキーワードです。この本をくり返し読み返しながら、虐待予防の活動を確実に実践されることを期待しています。

はじめに

 私は、保健(Public Health Care)の現場などで多数の虐待事例と関わるとともに、子どもを虐待する母親の治療に医療の立場から携わってきました。また各地で、援助専門職を対象とした講義を重ねてきています。この冊子は、そのなかで作成してきた資料やスライド原稿などを再構成し、「読めるテキスト」として、今回新たにまとめたものです。
 この冊子は、虐待事例に関わる援助専門職および虐待防止活動に関わる行政職にある人々を、読者として想定しています。虐待問題を抱えた当事者を含め「一般人」が読むことを想定していません。
 そのため、例えば、虐待についての厚生省の4分類を分類用語のみ表記し、その内容は説明していませんし、また、さまざまな公衆衛生学用語や医学用語を説明なしに用いています。これは、読者がそれらの用語の意味を知っているか、あるいはすぐに確認する場で働いていることを前提にしているからです。そのような立場にない一般の人が読んだ場合に、この冊子の趣旨が正しく伝わるかどうかの配慮はあまりなされていません。
 虐待事例に業務として関わる人々に、私の蓄積した実践的な経験を伝えていくことは、現場に不十分な「マニュアル」しか下ろされていない現在、火急の課題であると感じています。今回、子どもの虐待防止のために、関係機関の連携システムの強化に役立つことができればという目的で、その内容の不十分さを自覚したうえで、この冊子を作成しました。
 この冊子の性質上、全部であれ一部であれ、一般向けに開示・配布することは、厳に慎んでいただくようお願いします。一般向けには不親切な記述なので、それをもとに、虐待問題について不適切な理解が広まるようなことは、私の冊子作成意図に反するからです。
 一方、虐待事例に関わる援助専門職および虐待防止活動に関わる行政職にある人々のあいだで、この冊子が共有されることは、大いに筆者の歓迎するところです。ただし、総論を省いて各論のみの記述を引用しないください。それをされると、たとえば“虐待問題は母親の病理の問題である”というような、全く誤った認識を広める結果になりかねないからです。
 公衆衛生(Public Health)学的観点からみた虐待問題の本質は、総論で述べるように、「子どもを抱えて孤立する母親」を大量に作り出している社会的背景にある、というのが筆者の基本的立場です。そして、問題解決を困難にしてきた要因のうちの大きなものは、
 @(虐待)問題そのものの社会的否認
 A 家族内の問題に行政が介入することへの抵抗
 B「母性神話」の呪縛
 の3つに括れると考えます。
 「母親の病理」について論じるのは、虐待予防の保健活動において、主な援助対象となるのが母親であり、しかも事例の「病理性」に応じて、有効な援助介入の方策がそれぞれ異なるからです。けして、虐待問題の本質が「母親の病理にある」のではありません。有効な援助介入を行なうために、「母親の病理」の理解が必要だという意味です。

 この冊子では、Schizophreniaの訳語として、2002年に精神神経学会が改称した「統合失調症」ではなく「(精神)分裂病」を用いています。新名称を否定する意図ではなく、以下の理由からです。
 筆者が「保健」と関わるようになった出発点は、筆者の師(中澤正夫)から、中澤のフィールドであった東京・練馬区を引き継ぎ、精神保健活動に従事したことにあります。分裂病の精神保健の歴史は、「分裂病」に対する社会的差別・偏見(キチガイハ治ラナイ、野放シニスルナ、トジコメロ、等)とのたたかいの歴史でした。「病状」や「理解の薄い世間」のために消極的になりがちな分裂病者の「治療をうける権利」や「地域社会生活を営む権利」を守り実現していくための地道な保健活動の努力を積み重ねて来ました。社会に蔓延する誤った認識を修正していく努力が、いつもPublic Healthの中心に座っています。このことは、虐待予防の保健においても同じで、テーマは新しくとも、基本的な構造としては、変わりはありません。「分裂病」という旧病名をあえて使用するのは、新病名では、このような歴史性が十分に伝わらなくなると考えてのことです。「分裂病」という言葉が発生させる差別偏見を助長させる意図はまったくありません。

 ここで、虐待問題をめぐって社会に蔓延している「誤った認識」を修正すべく、上記の@〜Bについて「現状」を述べておきます。
 @「問題の存在そのものの社会的否認」(虐待問題を社会が認めてこなかったこと)について。
 多くの関係者による努力の結果、1997年から1998年にかけて否認の壁が急速に崩壊しました。もはや逆戻りはしないでしょう。
 A「家族内の問題に行政が介入することへの抵抗」について。
 2000年の児童虐待防止法および2002年6月の厚生労働省局長通知等により、大人のプライバシー権を乗り越えて子どもの人権を守るために行政側が介入していく枠組みの基本は成立しています。今は、いかに関係機関が連携して援助介入をしていけるかの実践が問われる段階です。
 B「母性神話の呪縛」について。
 これをいかにして解いていくかは、まさに現在進行形の課題であると言えましょう。
 なお、虐待予防において、学校保健が母子・精神保健といかに連携していくかが大きな課題である、と期待をこめて提起・指摘しておきたいと思います。

改訂版第2刷にあたっての追記

 2004年1月に初版を発行して以来、虐待事例に関わる援助専門職の方々にこの冊子が広くゆきわたりつつあることを感謝します。その後、2004年に改正児童虐待防止法、改正児童福祉法が成立し2005年に順次施行され、これにあわせて現場の動きが変わってきています(関係機関の連携、学校保健と母子・精神保健との連携も、この2年間で大きく前進してきていると実感しています)。また、初版の時点で筆者が指摘した法律上の問題点のかなりの部分がこの法改正によって解決しつつあります。
 以上のことを踏まえて、このたび改訂版第2刷を作成することとしました。


目次

 すいせんの言葉 中澤正夫・藤尾静枝 3

 はじめに 7

T.虐待の全体像をつかむ―総論 

1.子どもの虐待(Child Abuse & Neglect, Maltreatment)とは?17
2.心理的虐待は、身体的虐待に付け加えられている 17
3.心理的虐待は、ときに「予言的」である 18
4.子どもの虐待をめぐる社会的否認 18
5.虐待の「社会的否認」の歴史 19
6.日本における社会的否認の歴史 21
7.日本における虐待防止、民間ネットワーク設立 23
8.2000年の児童虐待防止法制定の時点における問題点 24
9.2004年の児童虐待防止法改正 25
10. 2004年の児童福祉法改正 26
11. 2004年の法改正で何が変わったのか 27
12. 要保護児童対策地域協議会とは 28
13.介入はケアの始まりである 30
14.虐待事例へのケアはいつ終結するのか 31
15.虐待をめぐる社会的背景 33
16.根本にある暮らし方の変化―核家族化と地域共同体の機能不全・崩壊―33
17.「母性神話」の呪縛と圧力 34
18.子どもを虐待する母親について最も陥りやすい「誤った認識」 35
19. ネグレクト事例への援助を考える 35
20. リスク要因についての、見落としがちな注意点 36
21.「虐待親は虐待行為を否認するものだ」というのは本当か? 36
22. 『子どもが…』という形式のSOS 37
23.虐待親への援助者に求められるもの 38
24.虐待親への援助にあたっての原則―総まとめ 39

U.虐待は予防できる 

25.児童相談所と保健所の役割の区別を知ること 41
26.虐待予防の基本戦略 41
27.「育児教育」は、発生予防に有効か? 42
28.虐待の「進行」を予防することの大切さ 42
29.「虐待」の重症度分類(後に詳述) 44
30.グレーゾーンから関わることの重要性 45
31.子どもの虐待と公衆衛生 46
32.虐待の予防医学 46
33.保健師が虐待問題に取り組むべき根拠―厚生労働省局長通知― 48
34.既存の精神保健:分裂病の地域精神保健との関係 49
35.既存の精神保健:アルコール依存の酒害相談活動との関係 49
36.保健所の役割の重要性@―母子保健の機能 50
37.保健所の役割の重要性A―精神保健の機能 51
38.保健所の役割の重要性B―虐待親への継続的な援助 51
39.保健所の役割の重要性C―ネットワーク形成の中核 52
40.虐待事例に関わるネットワーク図@ 52
41.保健所の限界と学校保健 54
42.虐待事例に関わるネットワーク図A 54
43.学童期における虐待の様相 54
44.いじめと虐待の関連性 56
45.被虐待児の虐待親に対する愛着過剰について 56
46.学童期に始まる性的虐待 57
47.不登校はしばしば、被虐待の「結果」である 58
48. 歯科健診の重要性 59
49. 保健の場で行なう親支援グループについて 59
50. 保健の場で行なう親支援グループの方法論 61
51. 保健以外の場で行政が行なう親支援グループについて 62
 
V.虐待の重症度分類

52.「虐待」の重症度分類 64
53.「虐待」の重症度分類:「直ちに保護」と「要保護」レッドゾーン65
54.「虐待」の重症度分類:「要支援」イエローゾーン 66
55.「虐待」の重症度分類:「要経過観察」グレーゾーン 54
56.重症度判断において考慮すべきこと 67

W.実際的な“虐待事例”の見立て 

57.虐待親が抱える精神保健上の問題からの事例性による分類 69
58.@母親自身の精神疾患が問題である場合 71
59.A児の側に何らかの医学的問題がある場合 72
60.B母親自身の嗜癖行動に伴う虐待の場合 72
61.C-a父親が嗜癖者で、母親がイネイブラー(enabler)の場合 73
62.C-b父から母への配偶者間暴力(DV)の場合 74
63.D-a母性神話にとらわれた育児不安 75
64.D-b母親自身の生育家族の病理が重い場合(世代間連鎖型) 75

X.虐待事例のネットワークのつくり方 

65.ネットワークをつくる上での注意 78
66.関係者のネットワークづくり 78
67.ネットワーク・ミーティングの召集 79
68.ネットワーク・ミーティングでは、次のことを行なう 80
69.介入ネットワークとケア・ネットワーク 80
70. 重症度の見立てを共有することの大切さと難しさ 81
 
Y.虐待親の治療

71.子どもを虐待する母親の治療 83
72.事例にあわせた治療の目標設定 83
73.治療をすすめていく上での前提条件 84
74.治療の構造 74
75. 遠方の専門医よりも地元の医師と連携すべし 84
76.グループ・セラピーについて―その有効性と限界 85

Z.再統合へ 

77.再統合とは 88
78.再統合の可否の判断を、虐待親の「治療者」の判断のみを根拠に行なっ てはならない 89
79.再統合の条件 89
80.@再統合にあたっての、虐待親の側の条件 90
81.A再統合にあたっての、ケア・ネットワーク側の条件 90

 著者紹介
 鷲山 拓男(わしやま たくお)
 1960年東京都生まれ。精神科医。東京医科歯科大学卒業、東京健生病院で基礎研修、みさと協立病院で精神科研修をへて、現在、社会福祉法人子どもの虐待防止センター評議員、練馬区保健所嘱託医精神科医。